博進堂について

博進堂についてABOUT

社長メッセージ

代表取締役社長清水 伸

今を生ききる

創業者である祖父、清水清司は「学校アルバム」という社会に役立つ事業を開拓してくれました。その後長きにわたり、絆を育みご支持くださるお客様やお取引先、また佳き師に恵まれ、幾度かの困難の時を越えてまいりました。そしてともに歩む、素直で誠実な社員はかけがえのない宝です。
2021年、博進堂は創業百周年を迎えました。ひとえに皆様のご支援の賜物と心より感謝申し上げます。

会社の生きる目的とは、博進堂が存在する理由とは、何か?
その答えは企業理念の中にあります。企業理念とともに歩む先で、実現することの中にその理由があります。
この度、百周年事業の一環として、新たに経営ビジョンを定めました。企業理念につながる四つのキーワード「共育・共創・作品・還元」を核とし、博進堂は企業活動全体がダイナミックに善循環する、小さな大企業へと進化してまいります。
未来を思うとき、今日という日の大切さに気づかされます。すべての可能性が今この時から始まり、確かな一歩の先につながっています。
創業百周年を迎え、新しい未来へ向けて一日一日、今を生ききりたいと強く願っています。

企業理念

社志

新しい価値を共に創造します

お客様、地域社会、同じ会社で働く仲間を大切にし
関わり合いの中から新しい価値を創造します

仕事を通じて人間の成長を支援します

仕事を通じて自らが人間的に成長し、お互いの価値観を尊重しながら
一人ひとりが生き甲斐のある人生を送れるように支援します

未来へつながる美しい作品づくりを追究します

美しいモノづくりの技術を追究することで
時間とともに価値が高まる作品を生み出します

社訓

感謝報恩

相手を思いやり、信頼し合う関係性を築きます

創意工夫

先見的な視野と独自の感性で、周囲に役立つ価値を追求します

自主自律

常に問題を自分事としてとらえ、主体的に行動します

社名ロゴタイプ

1981年に制定された社名ロゴタイプは、世界的に著名な墨象家・篠田桃紅先生に書いていただいた作品である。新たなロゴとマークをつくるにあたり、当時、社長だった4代目清水義晴が希望したのは、それ自体が「作品」であり、世界に通用するものであるということ。そこには博進堂が作り出す商品自体も「作品」であるように、との願いがこめられている。4代目が、ロゴマークへの想いを経営指導をいただいていた藤坂泰介先生に相談したところ、篠田先生に依頼してくださった。
数ヶ月後、篠田先生よりご連絡をいただき、作品を受け取るためにご自宅に伺うと、タテヨコ数枚ずつの社名を書いておられ、その中から藤坂先生が選ばれた。
下記に掲載している「三文字」は、当時、社外報『企業じゃあなりずむ』に寄稿していただいたものである。博進堂の未来を予言するような美しい随想を添えてくださり、それは長く当社が生み出す「作品」の品質を支えている。

篠田桃紅しのだ とうこう
1913年中国・大連生まれ。5歳の時、父の手ほどきで初めて墨と筆に触れる。伝統的な書から出発したが、戦後に水墨の抽象絵画へ移行。墨を使った抽象美術家として国際的に高い評価を受ける。レリーフ・壁画などの建築物に関わる大作を手がける一方、版画・題字・随筆などさまざまな分野に活動を広げ、100歳を超えても意欲的に制作を続けた。2021年老衰のため逝去。107歳。

シンボルマーク

社名の書体を篠田先生に創っていただいたのを機に、篠田先生の墨象に調和するシンボルを洋画家・津高和一先生に制作していただいた。
印刷企業のイメージを、印刷インキの3原色(シアン・マゼンタ・イエロー)をモチーフとして、フリーハンドでフォルムを創っていただくことをお願いして、でき上がったマークである。
シンボルマークが作成され、ロゴタイプと組み合わせる際には、篠田先生より「藤坂先生の管理のもとで行うように」と指示をいただき、セットパターンが完成。セットパターンが崩れないよう、全ての管理が藤坂先生に委ねられた。

津高和一つたか わいち
1911年大阪生まれ。16歳頃から詩作を始める。29歳頃から絵にも興味を抱くようになり、大阪中之島洋画研究所にて学ぶ。1959年サンパウロビエンナーレ展に出席、1961年日本現代美術ヨーロッパ巡回展、1972年ジャパン・アート・フェスティバルなどに出品。受賞歴は、日本現代美術展優秀賞など。1995年1月17日阪神・淡路大震災で逝去。83歳。

企業スローガン

博進堂の企業イメージをアピールする文章的商標として、藤坂泰介先生が創ったスローガンである。
「刷る」という言葉で企業の体質を表現し、すべての情報メディアに独自の造形と機能を創造する制作精神を「個性」という言葉で表現している。

藤坂泰介ふじさか ひろすけ
東洋工業・企画課宣伝係を経て、小西六(現コニカミノルタ)PR誌「さくらの国」での連載や二科展商業美術部入選(6回連続入選)など、美術・編集に関わる活動を続ける。東郷青児の目にとまり、独自のパピエコレ(貼り絵)の世界を広げていった。広島県立広島商業高等学校美術講師、ダイコロ企画室主管、日本写真専門学校講師を経て、岩田写真 岩田次夫氏の紹介により、博進堂企画室長に就任。博進堂のデザイン・教育・経営など全ての面で後進の指導にあたる。著書に『学校あるばむ編集ノオト』『すたいるぶっく』『企業ジャーナリズム』などがある。1987年1月急逝。
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